『痴呆を生きるということ』覚書

この本の

著者小澤勲氏は京大医学部卒業後若手精神科医として自閉症の臨床と研究に力を注いでいた。彼の残した自閉症に関する論考は、彼が自閉症研究を中断したその後も語り継がれ、わが国の自閉症研究のひとつの到達点とも言われている。私も彼のその論考でずいぶんと学ばせてもらった。いまでも若い後輩たちには彼の自閉症論を読むように勧めてもいる。

その小澤氏が痴呆症専門の精神科医小澤氏と同一人物だと認識するのにはちょっと時間がかかった。小澤氏が自閉症臨床に携わったのは若いころの一時期であって、精神科医としての人生のほとんどは痴呆症専門医としての活動が中心であったようだ。NHKなどの痴呆症特集番組に登場しているし、彼が癌患者となってからの生活は『こころの時代』(当時教育テレビ、現Eテレ)で過去に紹介されている。

小澤氏による、自閉症、痴呆症、どちらの著作を読んでも、そこに通底しているのは、医学では治癒が不可能な病(障害)を抱える人々への、臨床家としての洞察力。その症状、心理・行動に関する記述力だ。しかも、そこに人間性というのだろうか。真摯に患者に向き合う/向き合おうとする人柄が透けて見えるのが小澤氏の著作の魅力でもある。

高谷清先生が『重い障害を生きるということ』(岩波新書、2010)という著作を出しておられる(以前このブログでレビューしました)。高谷氏のこのタイトルは小澤氏の著作に倣ったものだろうか。

小澤氏、高谷氏の慧眼は読んでいて、こころが震えるほど刺激的で、こういう目をもつ医師と出会ったら、きっと患者およびその家族は病から何かをつかむだろうし、救われるだろうし、医師と患者およびその家族との間に、信頼と言う名の相互作用が生まれる土壌が作られるはずだろう、とも思う。

小澤氏は『痴呆を生きるということ』(岩波新書、2003)で、まず彼自身がアメリカの精神科医ハリー・スタック・サリヴァンの影響を受けていると述べる。サリヴァンは当時治癒不能であった「分裂病」(当時)の患者を治すのではなく、「寄り添う」ことに心血を注ぎ、治療構造においてもそのような入院環境を作った人である。

小澤氏は彼に習って「痴呆を生きる」という視点で「痴呆」について考える。そして、医師として治療不可能な痴呆症の人々に「寄り添って」みようと試みる。

この本は臨床医としての参与観察記録といえるだろう。しかし、参与観察という言葉もこの本の前ではうすっぺらな言葉である。彼は痴呆症を自分の問題として語っている。それは著者が肺がんを患いながら書いた本であり(小澤氏は2008年に70歳で亡くなっている)、またご自身の父親との体験も背景にあるようだ。

小澤氏はひとつの「事例」として小説家耕治人の著作を提示する。耕の妻が痴呆を生きたプロセスを描いた小説を第2章で読み解いている。

どの章を読んでも、医師として、と同時に人として、「痴呆を生きる人」に真摯にかかわっていることが随所に感じられる。しかし、優れた医師であり、研究者でないとできない仕事をしているのも確かだ。とりわけ3章以降の「物盗られ妄想」の解釈は圧巻で、臨床家としての勘所がおさえてあり、その観察眼が冴えわたる。

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もの盗られ妄想を抱く人たちもまた、二つの感情に引き裂かれている。つまり、彼らは喪失感と攻撃性の狭間で揺れ動いている。そして、この狭間にあるという事態が彼らを抜き差しならない窮地に追いやっている。
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もの盗られ妄想を抱く人たちは喪失感と攻撃性、依存欲求と依存拒否という両価感情に翻弄されている。だから、彼らへのケアは結局のところ、妄想を産出せざるをえなかった喪失感をどのように埋め、攻撃性にどう応えていくか、である。
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このような考察が可能になれば、患者にどれだけ意味あるかかわりができるだろうか、と思う。つい先日我が母が認知症(痴呆)ゆえに、ひどい看護と医療を受けた。その家族の体験からも強くそう思う。

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もし、体調が悪くなって病院を訪れ、「熱があります」というと、医師が考えもせずに解熱剤を処方し、「咳もあります」というと鎮咳剤を加え、「しんどい」と訴えると点滴を指示して何も言わずに引っ込んでしまったら、「ヤブ医者!」と怒鳴りたくなるだろう。
 症状の裏にある疾病を診断し、その原因をつきとめて、そこに届く治療を考える。これが医学的発想である。(中略)この医師はそれを怠っているからである。痴呆を病む人の行動障害や精神症状に対しても同様に、その基盤にある病態を明らかにし、その成り立ちを考えて、対応策を立てる必要がある。考えることを怠り、ただやみくもにケアを行う、過去の一、二の経験をそのまま一般化して当てはめようとする。あるいは眠剤や向精神薬の投与を求めるなどは、ヤブ医者と同等の芸のなさである。
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我が老母が受けた医療行為はまさしくこれである。「ヤブ医者」「ヤブ看護師」が闊歩している医療と看護が最先端で存在している現状。歴史学者上原専禄が妻を診断ミスで失った時の医療への怒りと失望はいま現在進行している医療問題である(これについても以前このブログですこし感想を書きました)。ここで問題になるのは医療の技術的ミスだけではなく、医師の姿勢なのだ。

小澤氏は痴呆症のケアでとくに伝えたいこととして「彼らのこころとからだ、そして生活世界を隔てる壁が低い」点を理解することの重要性を指摘する。

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要するに、こころの世界で生じたことがからだに激しい影響を及ぼし、からだの差し障りがこころの変調を招く。生活世界で生じた変化が個のこころとからだに直裁な変化をもたらし、逆に、痴呆を病む人がその生活世界全体に大きなゆらぎをもたらす。このように考えると、痴呆を病む人たちのゆらぎは、こころ・からだ・生活世界のいずれかの領域にみられるのではなく、それらすべてを包含する生き方に及ぶ、と考えねばならない。
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母をみていると実感するところである。体調が悪くなれば、認知症状も悪化し、認知症状が悪化すれば、身体も不調になる。どちらが先に起こったことなのか判断がつかない。過去と現在の判別がつかないときがままあるので、それらの悪化は即生活そのものに跳ねかえってくる。

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痴呆を病む人たちは、一つ一つのエピソードは記憶に残っていないらしいのに、そのエピソードにまつわる感情は蓄積されていくように思える。叱責され続けると、そのこと自体は忘れているようでも、自分がどのような立場にあるのか、どのように周囲に扱われているのか、という漠然とした感覚は確実に彼らのものになる。
 逆に、せっかく苦労して一緒に行った旅行から帰ってきた直後に、旅行にでたことさえ忘れてしまい、がっかりさせられることがある。だが、そのような心遣いは必ず彼らのこころに届き、蓄積され、彼らを支える。
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毎日老母の世話をしてみると、なんだか空しい、と思わされることも多い。食事を作って出しても、自分が作ったと思い込んでいる。折々のプレゼントももらったことを忘れる。しかし、そうであっても、それらのことが彼ら/彼女の「こころに届き、蓄積され、彼らを支える」としたら、それでいい。彼女は時折「これもらったんだよね」と言うときもあるのだから。

小澤氏はこの著作の中で、「痴呆を生きる人」とその介護をする人の間にあるものとして「光明」という言葉をいくどか使っている。

まさしくこの本そのものが介護する家族にとっては「光明」がさしこむような1冊だ。
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