映画『怪物はささやく』感想メモ。

今朝従姉から「相撲がはじまってよかったね」と電話。「そう。楽しみがないからね、ほかに」と答える。昨日BSでみた映画が「よかった」としきりに言うのだけど、彼女はタイトルと俳優の名が出てこない。ストーリーを聴いてすぐわかった。「トム・ハンクスがでたグリーン・マイルでしょう?」といったら「そうそう。よく覚えているね」「いちおうまだ59ですから」。彼女は84歳。でも元気だ。滑舌も昔と全くかわらない。

人の名前とか映画タイトルなんて、わたしがその映画が好きで3回くらいみて、見るたび泣いているから、覚えていただけで、最近はからっきし固有名詞がでてこない。そんなわたしが最近録画しておいた映画が『怪物はささやく』。

怪物はささやく(字幕版) - シガニー・ウィーバー, フェリシティ・ジョーンズ, トビー・ケベル, ルイス・マクドゥーガル, リーアム・ニーソン, J.A.バヨナ, パトリック・ネス
怪物はささやく(字幕版) - シガニー・ウィーバー, フェリシティ・ジョーンズ, トビー・ケベル, ルイス・マクドゥーガル, リーアム・ニーソン, J.A.バヨナ, パトリック・ネス

わたしの目の前にはそこそこの大きさの木が一本ある。5月ごろは生き生き青々していてずどんと大きく独特のにおいを発していた。夏になると元気をなくししぼんだ感じになる。ここのところの長梅雨で水分たっぷり吸収したせいか、一回り小さくなっていたのが、また葉が伸びて大きくなって生き生きしている。昨日は「なんかまた伸びてきたなあ、こちらに」と思った。

いつもそれをなんとなくみているけど、今朝思った。「そうだ。この木は母が暑い日に麦わら帽子かぶって、洗濯物を干していたのを見ていたんだろうなあ」。これは映画の影響だ。小学生くらいの精神年齢のわたしだから、12歳の主人公より幼いアニミズム的な感覚になっているのだ。

『怪物はささやく』は、

コナーという男の子の家のそばにある大木が怪物になって彼の前に現れる。怪物は彼の特別な存在になるという話だ。全体のストーリーはシンプルで、両親が離婚して母に育てられている12歳の男の子が主人公。母は癌の末期のようで、母の死ぬ悪夢に彼は夜な夜な悩まされている。学校ではいじめられ放課後ひどい暴力を受けているが、そんなことは母には言えない。毎朝ひとりでトーストを焼きジャムを塗りひとり食事をして、身支度をする。出かける前に、母の部屋をのぞきまだ寝ている母の様子を悲しそうに確認して学校へ行く。

祖母とは折り合いが悪い。別れた父は会いに来てくれるが、父には新しい家族がいる。母が入院するときは父のもとで過ごせないかと頼むが、父は家が狭いから、遊びに来るのはいいけど、暮らすのは難しいと彼に告げる。

そんな彼の前に突然大木が怪物になりあらわれる。そして3つの物語を自分が語るから、4つ目はコナーが真実の物語を自分に語れという。怪物が語る3つの物語は非常に深い深い話である。しかし、彼はそんな話をされても戸惑うばかりである。

コナーは母を治してほしいと怪物に懇願するが、願いは受け入れられない。じゃなぜ自分の前に現れるんだ?と問う。「コナーを癒すためだ」。母の最期が近づき、祖母(「エイリアン」のシガニー・ウィーバーが演じている)とは和解。最後に彼が語る4つめの物語は母の死である。

怪物の話す3つの話が人間の、人生の、不可解さ、理不尽を語っているが、どこか象徴的な物語ばかりだ。コナーは孤独の底にいた。怪物をそのコナーの無意識とみるか、不思議な夢とするか。わたしはそれがどれであろうと、これはコナーのナラティブスト―リーそのものの映画だったと感じた。

この映画の面白さは、大木が化けて怪物がでてはくるが、不思議な力というか神通力みたいなものは一切使わないところ。ただ大木から怪物に変化して物語を語る。コナーに語りかけ、コナーと語る。そして最後にコナーの物語を引き出す。梨木香歩さんの小説では木がしゃべるというのがあったけど。

わたしはひとは物語ることで癒される、と考えるひとりである。ここでは怪物が語り手であり、聞き手であった。そして怪物とコナーが物語を供給しあうことで、何かがコナーの中に醸成される。それにより母の死を迎える準備を苦しみながらもできて、死を認める。そのプロセスの途上では、あれだけ拒否しあっていた祖母とも和解した。

みてよかったと思う映画だが、ではそれが感動かというと、違うし、ハートウォーミングなのでもない。でもどこか惹かれる。深いところで何かこう共鳴し合った気がした。そんな映画であった。